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色あせたシェイプ

​​短編小説

「いつか聞いた 特別な瀧のこと」

        紅香(滝ノ上)

 

 これは、私がまだ小さな子供の時、多摩川を​南に見おろす高台にあった、古い家に住んでいた優しい祖母が、五月のある晩、寝付けぬ私に話してくれた物語です。

ちょうど、昼間は五月晴れでも、まだ夜は​、風が少しひんやりと山吹の黄色い花枝を揺らす、初夏待ちの時分だったと思います。

∞∞∞∞∞∞

 昔々、青梅の多摩川には橋がひとつも架かっていず、川の両岸の行き来は難しいものでした。川のこちら側には多摩川に落ちる小さな滝があり、辺りは瀧ノ上と呼ばれ、その集落の中にひとりの娘がいました。

 戦がまだあちこちである時代で、人々はいつも不安を胸に暮らしていました。ある時、戦に向けた備えが多摩川の対岸で行われていて、多くの武者や従者が川を馬で渡って行きました。川岸から見ていた娘は、その中にひとりの若武者の姿を見つけ、その輝くような凛々しさに若武者のことが忘れられなくなってしまいました。

戦を前にした若武者の、きっとつらく厳しいであろう気持ちを慰めてあげたいと、いてもたってもいられなくなりましたが、対岸には行きたくても行くことはできず、沸き起こる想いをただ抑えられず涙するばかりでした。

 

 古より、多摩川に落ちる滝には、濃紺のうろこを持つ龍神がいらっしゃいました。向こう岸を見つめ涙が尽きない娘をいつしか気にされるようになり、ある夜、娘の夢に現れ、聴こえれば言葉がなくとも想いが届く音色を持つ、小さな横笛を授けました。そしてひとつだけ言い添えました「夜は、おまえと同じように河鹿蛙が川辺で想いを鳴き交わす時なので、笛を川に向かって吹いてはいけない」。娘はとても喜び感謝して、約束を守ることを誓いました。そして、目覚めたときに横笛を手にしていました。

娘は、若武者を慰め、想いを伝えようと、毎日、朝から日暮れまでの間、対岸にいるであろう若武者の姿を求めては、音色よ届けと横笛を一生懸命吹いていました。

 

 ある日、陽も沈んだ後、娘は対岸が物々しいことに気付きました。篝火がいくつも焚かれ、武者たちが弓矢を手に集まり、多くの馬がたてがみを震わせている様子がちらちらと見えました。戦への出陣の前夜だったのです。目を凝らしてみると、篝火に赤く染まる若武者の姿もありました。

もう明日には戦に行ってしまう、もう帰ってこないかもしれない、その思いに激しく駆られた娘は、龍神との約束を破り、月の光の下、張り裂けそうな想いを五月の途切れがちな風にのせ、横笛を吹き続けました。

 しかし、それを知った龍神は、娘の切ない想いはいたくわかりつつも、横笛を取り上げざるを得ません。

ためらいましたが、夜半どき、釜の淵から巻き上げる谷風で、横笛を娘から奪い取ってしまいました。

 

 夜明け近く、対岸の武者たちは、鬨の声とともに次々と出陣していきます。ひとり取り残され、対岸を見つめ途方に暮れていた娘は、その中に、馬上で振り向くこともなく、少しずつ、だんだんと遠く消えていく、若武者の姿を見つけてしまいます。

想いを届けられないまま、もう会うこともできない悲しみと、叶えられることのないはかない望みのあまりの強さに耐えきれず、娘はついに、若武者の去っていった彼方に向かい、滝に身を投げてしまいました。

 

 多摩川は、五月のせせらぎが変わらず流れゆくばかりでした。

 

 

 この一部始終を伝え知った瀧ノ上の人々は、娘をたいそう憐れみ、滝下に眠る娘の魂が、龍神の横笛をいつでも吹いて想いを届けられるよう、瀧ノ上の「瀧」の右下の三本横棒から、横笛の一本を外し、普段はいつも二本棒で瀧の字を書くようになりました。

 でも、夜だけは龍神に横笛をお戻しすることにしていました。瀧ノ上で、提灯に書かれた「瀧」の字は、右下が三本棒になっています。これは、夜は横笛が戻ってきているからなのです。

∞∞∞∞∞

 

以前と比べ、今は、五月は初夏が通り過ぎるのが早いようです。

でも、今も変わらず、青梅の多摩川の夜半の川辺からは、月影の中、河鹿蛙が静かなさえずりを響かせてくれています。

 

もう夜も更けたようです。

「夏の記憶」

       十六夜 吐息(滝ノ上)

 彼女とは同じ年だった。でもその年頃では、少し子供らしくないそぶりを彼女に見せつけられた時、少年達は軽い嫉妬と憧れを胸に抱くものである。

僕はそんな中の一人だったのだろうか。

 夕刻に彼女が現れるのを、毎日仲間と虫とりや缶蹴りをしながら待っていたものだ。
南向きのゆるい坂を彼女は上ってくる。

山間に沈みかけた夕日は、辺りを色濃く染めていた。

彼女が歩いてくる。ゆっくりと、まるで陽炎のように。道端の百合が揺れる。彼女の髪も揺れている。僕たちほどではないにしろ日に焼けたその肌。映える影。

近づいてくる彼女を、僕たちはわざと無視してみせる。
すれ違いざま、彼女は僕たちを見てちらりと笑う。
その瞳がいつも僕だけに向いているように思え、坂の上へと遠ざかる姿を、仲間に感づかれないように見送ったものだ。

 ある晩、僕はカナカナゼミが毎夕鳴いている大きな木の下で、成虫間近なセミの幼虫が土の中から這い出すのを見ていた。
すると、遠くに灯が見えた。それは墓参りの帰りの彼女の一家だった。彼女は薄桃の浴衣を着てうなじを見せ、手には小さな盆提灯を持っていた。
その時初めて、僕は彼女が幼く、小さく見えた。

なぜか秘かに心の底がほっとしていた。
僕は、足元に咲いているホタルブクロに気がついた。

そしてその淡紫色に、そっと彼女の面影を重ねてみるのだった。

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